LOGINメモに書かれていた名前の一つを、記者は追った。
かつて摘発された広域詐欺グループの元幹部で、今は服役を終え、地方都市でひっそりと暮らしているという情報があった。 接触までにはさらに時間がかかった。 何度も断られ、ようやく会えたのは、場末の喫茶店だった。 男はやつれた顔で、記者の向かいに座った。 「新聞に、また何か書かれるのか」 「今日は違う記事です」 記者は絵本を出した。 男の表情が変わった。あの裏社会の大物と同じ、あの瞬間だけの変化だった。 「……懐かしいな」 「読んだことがあるんですね」 「図書館で、何度も」 男はしばらく黙って、表紙を見つめていた。 「俺は、影が…」 「影ですか?」 「母親と同じと思ったからだ」 「母親?」 「外面は良い母親だったよ、家の中では毎日罵声と暴力を振るう毎日だった、見た目と中身の違う様はリンゴの影と同じだろ。」 絵本の表紙には形が違う影が並んでいた。指で表紙の影に触れながら 「この影は人間性を描いてたのだろう」 記者はその言葉を書き留めた。 「あなたも、御厨先生に会ったことが?」 「一度だけな」 「何を話したんです」 「お前は、これからどうなりたいか、と聞かれた」 「答えは?」 「一人で生きていきたい、と言った」 男は笑った。自嘲のこもった笑いだった。 「先生は、それはいい、と言った。だが、どう生きるかではない、生き抜く方法を間違えるなよ、とも言われた」 「間違えた、と思いますか」 男は長い沈黙のあと、答えた。 「生き抜く方法、それが詐欺だった」 「後悔していますか」 「後悔はしていない。ただ、時々思う。もし、あの絵本を読んでいなかったら、俺はもっと平凡な人間になれたんじゃないかと」 記者はその言葉に、返す言葉がなかった。 「先生の記録に、『潜在』という言葉があるのを知っていますか」 「聞いたことがある」 「意味を?」 「先生は、こう言っていたそうだ。誰から聞いたかは忘れたが」 男は記者を見た。 「花が咲くとは限らない種でも、蒔かないよりはましだ、と」 「それだけですか」 「それだけだ。だが、蒔かれた種は、自分がどんな花になるかを選べない」 記者はその言葉を、何度も心の中で繰り返した。 丸、四角、三角、そして潜在。 分類とは、才能の種類ではなかった。 花が咲くか咲かないか、まだ分からない状態そのものを指す言葉だったのかもしれない。 そして「潜在」に分類された人間の一部は、花ではなく棘になった。 喫茶店を出るとき、男が最後に言った。 「あんたも、その絵本を読んだことがあるんじゃないか」 「なぜ、そう思うんです」 「聞き方が、俺と同じだ」記事は、大きな反響を呼んだ。 埋もれていた研究者の存在。子供に矛盾を見せることで才能を引き出そうとした、風変わりな試み。 成功者たちの証言。 そして、光の当たらない場所で育った才能。 ――裏社会の男たちの存在。 倫理的な問題も含めて、記者は事実をありのままに書いた。美談としてではなく、功罪の両方を併記する形で。 記事は、感動的な発掘物語として、多くの媒体に転載された。 皮肉なことに、記者が最も書きたかった「功罪の両方」のうち、「功」の部分だけが切り取られ、拡散していった。ある番組は、御厨を「無名の天才教育者」として紹介し、記者を「その功績を発掘したジャーナリスト」として持ち上げた。 記者のもとには、取材依頼が相次いだ。 テレビ、雑誌、講演。これまで裏社会だけを追ってきた記者にとって、初めて浴びる種類の注目だった。かつて取材した化学者や芸術家からは、労いのメッセージも届いた。 誰もが、記者の仕事を称賛した。 ある夜、記者は自分の部屋で子供の頃の絵本を開いた。表紙の隅の、幼い自分の字。 「なんで四こなの?」 記者はその文字を、指でなぞった。 御厨は、疑うことを教えようとした。 だが、記者が今浴びているこの称賛は、疑いようのない成功の証として、世間に受け取られている。 誰も、記者自身が御厨の記録にあった人間だということには気づいていない。 それを記事の中に書かなかったのは、記者自身の判断だった。 自分は、御厨の記録の中で、どちらに分類されていたのだろう。 「丸」か。 「四角」か。 「三角」か。 それとも、「潜在」か。 答えは、もう誰にも分からない。 御厨は死に、記録の一部は失われ、確かめる術はどこにもない。 あの裏社会の大物も、詐欺グループの元幹部も、記者と同じように、自分がどこに分類されていたのかを知らないまま生きてきた。 だが、記者は気づいていた。 この記事を書き、世に問い、注目を浴びることができたこと自体が――疑うことを教えられた子供が、その疑いの力を使って何かを成し遂げるという、御厨の描いた筋書きそのものだったのではないか、ということに。 自分が暴いたはずの構造の中に、自分自身が、最後の証明として組み込まれていたのではないか。 私も、成功者になりえ
御厨透の晩年を知る人物は、もうほとんど残っていなかった。 記者は御厨が最後に暮らしていたという四国の小さな町を訪ねた。 海に近い、静かな町だった。 潮の匂いが路地の奥まで漂っている。 図書館は今も残っていたが、建て替えられ、当時の面影はほとんどなかった。町の空気には、記者自身の記憶の底にあるものと、どこか重なるものがあった。 当時を知る司書は、すでに亡くなっていた。 だが、その娘が近くに住んでいた。記者は彼女を訪ねた。 「父から、あの人の話は聞いたことがあります」 「どんな話でしたか」 「先生は、最後まで確信が持てなかったそうです」 「何にです?」 「自分がしていることが、正しいことなのかどうか」 彼女は、古いノートを見せてくれた。父が書き残していた、御厨との会話の記録だった。 『先生は、こう言っていました。私は子供たちに種を蒔いた。だが、その種がどんな花を咲かせるかは、私が決めることではない。ただ、何かが生まれることだけは分かっていた』 『先生は、それが恐ろしいとも言っていました。花か、それとも棘か。自分には見分けがつかない、と』 『晩年、先生は「潜在」に分類した子供たちを、特によく気にかけていました。他の子供たちには声をかけなくなっても、その子たちの消息だけは、最後まで調べ続けていました』 記者はノートを閉じた。 「先生は、後悔していたんでしょうか」 「分かりません。ただ、父の記憶では、最後の頃、先生はずっと同じことを呟いていたそうです」 「何と?」 「『疑うことを教えたつもりだったが、私自身が一番信じてしまっていたのかもしれない』」 その言葉を、記者は何度も反芻した。 御厨は、子供たちに型を疑うことを教えた。 だが、その行為自体が、彼自身の作った、もう一つの大きな型だったのかもしれない。 選ばれた子供たちは、疑うことを覚えたはずなのに、誰一人として「なぜ自分が選ばれたのか」を最後まで疑わなかった。 記者は、自分自身がそうだったことに気づいた。 彼女は最後に、もう一つのことを教えてくれた。 「先生の遺品の中に、最後まで完成しなかった原稿があったそうです」 「何の原稿です?」 「もう一冊の絵本の原稿です。タイトルだけが決まっていて、中身は白紙のまま
その夜、記者は実家に電話をかけた。数年ぶりの連絡だった。 母は最初、用件を聞いて戸惑っていたが、絵本の話をすると、しばらく沈黙した。 「……あの絵本、覚えてるの?」 「覚えてない。だから聞いてる」 「あなた、小さい頃、図書館によく通ってたでしょう」 「そうだったか」 「うん。近所のおばさんに勧められて。あの頃はよく分からなかったけど、作者が変わった人だったって聞いた」 「変わった人?」 「本を配って歩いてる人。近所じゃちょっとした噂になってた」 記者は受話器を握り直した。 「その人の名前、覚えてる?」 「みくり、さん……だったかな」 記者は目を閉じた。予感が、確信に変わっていく音がした。 「お母さん、俺、その人に会ったことある?」 「一度だけね。図書館の帰りに、声をかけられたことがあった気がする」 「何を話したか、覚えてる?」 「覚えてないわ。でも、あなた、その日から急に絵本の話ばかりするようになったのよね」 実家の押し入れを母に頼んで探してもらった。 数日後、宅配便で古い箱が届いた。中には子供の頃の作文やノートに混じって、一冊の絵本があった。 『まあるいリンゴ しかくいリンゴ さんかくのリンゴ』 初版本だった。表紙の隅に、幼い自分の字で、何かが書き込まれている。 「なんで四こなの?」 その一行を、記者は何度も読み返した。 自分もまた、あの矛盾に気づいた子供の一人だった。 そのことを、これまで完全に忘れていた。 ノートを繰ると、当時の作文が出てきた。 「しょうらいのゆめ」という題の作文だった。 「ぼくは、しんぶんきしゃになりたいです。うそをみつけるしごとがしたいです。えほんのりんごが、ほんとうはいくつあるのか、しらべるひとになりたいです」 拙い字だったが、記者はそれを読んで、しばらく動けなかった。 自分がこの仕事を選んだ理由の、いちばん奥にあったものが、そこに書かれていた。 記者は編集長に、これまで調べたことのすべてを報告した。 編集長は黙って聞いていたが、最後まで話し終えると、静かに言った。 「お前がこの取材の担当になったのは、偶然じゃない」 「知っていたんですか」 「お前の名前も、御厨の記録にあった」 「なぜ、最初に教えて
メモに書かれていた名前の一つを、記者は追った。 かつて摘発された広域詐欺グループの元幹部で、今は服役を終え、地方都市でひっそりと暮らしているという情報があった。 接触までにはさらに時間がかかった。 何度も断られ、ようやく会えたのは、場末の喫茶店だった。 男はやつれた顔で、記者の向かいに座った。 「新聞に、また何か書かれるのか」 「今日は違う記事です」 記者は絵本を出した。 男の表情が変わった。あの裏社会の大物と同じ、あの瞬間だけの変化だった。 「……懐かしいな」 「読んだことがあるんですね」 「図書館で、何度も」 男はしばらく黙って、表紙を見つめていた。 「俺は、影が…」 「影ですか?」 「母親と同じと思ったからだ」 「母親?」 「外面は良い母親だったよ、家の中では毎日罵声と暴力を振るう毎日だった、見た目と中身の違う様はリンゴの影と同じだろ。」 絵本の表紙には形が違う影が並んでいた。指で表紙の影に触れながら 「この影は人間性を描いてたのだろう」 記者はその言葉を書き留めた。 「あなたも、御厨先生に会ったことが?」 「一度だけな」 「何を話したんです」 「お前は、これからどうなりたいか、と聞かれた」 「答えは?」 「一人で生きていきたい、と言った」 男は笑った。自嘲のこもった笑いだった。 「先生は、それはいい、と言った。だが、どう生きるかではない、生き抜く方法を間違えるなよ、とも言われた」 「間違えた、と思いますか」 男は長い沈黙のあと、答えた。 「生き抜く方法、それが詐欺だった」 「後悔していますか」 「後悔はしていない。ただ、時々思う。もし、あの絵本を読んでいなかったら、俺はもっと平凡な人間になれたんじゃないかと」 記者はその言葉に、返す言葉がなかった。 「先生の記録に、『潜在』という言葉があるのを知っていますか」 「聞いたことがある」 「意味を?」 「先生は、こう言っていたそうだ。誰から聞いたかは忘れたが」 男は記者を見た。 「花が咲くとは限らない種でも、蒔かないよりはましだ、と」 「それだけですか」 「それだけだ。だが、蒔かれた種は、自分がどんな花になるかを選べない」 記者はその言葉を、何
大物の名は、界隈では知らぬ者のない男だった。 表向きは複数の企業を傘下に持つ投資家として振る舞っているが、その資金の出所を辿れば、必ずどこかで裏の世界に行き着く。 記者は過去に二度、彼の周辺を取材したことがあったが、本人と直接会うのは初めてだった。 接触を取り付けるだけで二週間かかった。かつての情報源をいくつも頼り、ようやく指定されたのは、都心から離れた古い日本家屋だった。庭に面した座敷に通され待つあいだ、記者は庭の松の木を眺めていた。 手入れの行き届いた枝ぶりが、雨に濡れて黒く光っている。 「珍しい客だな」 男は静かに現れた。年齢は六十を過ぎているはずだが、姿勢に緩みがない。 座布団に腰を下ろすと、まず茶を勧めた。 所作の一つひとつに、長年権力の中枢に近い場所で生きてきた人間特有の、静かな威圧感があった。 「今日は事件の話じゃないのか」 「違います」 「なら、何の用だ」 記者は絵本をテーブルに置いた。 男の視線が、一瞬だけ止まった。 長年、人の表情の変化を職業として見てきた記者には、それが分かった。 ほんの一瞬、瞳の奥に何かが灯り、すぐに消えた。 「懐かしいな」 「ご存じですか」 「知らないわけがないだろう」 男は絵本を手に取った。 ページをめくる指の動きは、驚くほど丁寧だった。まるで壊れ物を扱うようだった。 「四十年近く前だ。図書館で読んだ」 「四国の、ですか」 「そうだ」 男は目を閉じた。しばらく黙ったまま、記者の存在を忘れたかのようだった。座敷には、雨の音だけが響いていた。 「私は、施設育ちでな」 「施設……」 「親はいない。いや、いたが、いないのと同じだった」 男は目を開けた。 「図書館だけが、あの頃の逃げ場だった。誰も私を叱らない場所だ」 「そこでこの本に?」 「ああ。司書に勧められた」 「司書、ですか」 「今にして思えば、あの司書も御厨先生の協力者だったのだろうな」 記者はボイスレコーダーを確認する余裕もなく、ただ聞いていた。 「先生には、一度だけ会った」 「本当ですか」 「図書館の裏で、絵本の感想を聞かれた」 「何と答えたんです?」 男は笑った。あの実業家と同じ種類の、値踏みの笑いだった。しかし今は、そこに別の何かが混じっていた。 「君はえらばれた。と言った」 「な
ある島にしか育たない世界でたった一本のリンゴの木がありました。 その島には、頭のいい人がたくさん住んでいました。 文章を書くのが上手な人。 計算が得意な人。 絵を描くのが上手な人。 音楽をつくる人。 まだ誰も見たことのないものを想像できる人。 人の悲しみや喜びを、自分のことのように考えられる人。 島の人たちは、どうして自分たちの島にはこんなに頭のいい人が多いのか知っていました。 あのリンゴの木のおかげです。 リンゴの木には、不思議な実がなりました。 まあるいリンゴ。 しかくいリンゴ。 さんかくのリンゴ。 ふつうのリンゴ。 形が違えば、味も違いました。 まあるいリンゴは、やさしく甘い味。 しかくいリンゴは、少し酸っぱく、しゃきっとした味。 さんかくのリンゴは、甘酸っぱく、不思議な香りのする味。 島の人たちは、毎日いろいろなリンゴを食べました。 まあるいリンゴを食べると、言葉や人の気持ちを考えるのが得意になりました。 しかくいリンゴを食べると、数字や仕組みを考えるのが得意になりました。 さんかくのリンゴを食べると、想像することや、絵や音楽をつくることが得意になりました。 けれど、一番大切なことがありました。 違う形のリンゴを食べると、今まで知らなかった考え方を知ることができたのです。 文章を書くのが得意な人が、しかくいリンゴを食べれば、物語の中に数字や仕組みを取り入れられるようになりました。 計算が得意な人が、さんかくのリンゴを食べれば、数字から美しいものを想像できるようになりました。 絵を描く人が、まあるいリンゴを食べれば、人の心まで描けるようになりました。 だから島の人たちは、同じリンゴばかり食べませんでした。 「今日は、どのリンゴを食べようか」 それが島の人たちの楽しみでした。 ある日、海の向こうから、一人の旅人がやってきました。 旅人は島の人たちを見て、驚きました。 「どうして、みんなそんなに頭がいいのですか?」 島の人たちは、リンゴの木を指さしました。 旅人がリンゴを一つ食べてみると、目を丸くしました。 「すごい……」 旅人は帰ると、世界中の人に話しました。 「あの島には、不思議なリンゴの木がある」 「食